2011年11月23日水曜日

思考停止現象

最近、特にTPP関連のニュースを聞いていると、
 
  「~なったら、終わりです。」
  
などおっしゃる方が実に多いこと。例えば、「TPPに参加したら日本の農業は終わりです。」というように使っています。小生などは何で終わりなのか分からず、その発言に耳を傾けていると次には、「日本の農業が壊滅したら、日本の食の安全はどうなるのでしょうか?」などと発言している。この発言はあまりに矛盾していないだろうか? もしくは自分で解決策を探そうするつもりがあるのか? と不思議に思ってしまう。 この論理はあまりに自分勝手なロジックを組み立てたものであり、自分で解決策のない難題を作り上げているように感じる。小生などは、「食の安全を求める人がいるのなら、日本の農業にだって生き残るチャンスはある。」と考えてしまう。

 本当に生き残るチャンスがあるかは保証できないが、根本にある問題は、「~なったら、終わりです。」のロジックがどのように組み立てられているのか、それを明らかにしないで議論していることである。「~なったら、終わりです。」という表現は、ロジックは説明しなくても自明なので、次に順接につながることを発言するのなら使ってもよいと思う。しかし、例に挙げたのは逆説で「食の安全は…」と発言している。それならば、「~なったら、終わりです。」のロジックを丁寧に説明しなければ問題を考えようがないではないか。発言者の意図を考えるに、問題点は「~なったら、終わりです。」のどこかにあるからである。小生などは本当に終わりなのだろうかと考えている。 思うに、終わっているのは発言者の思考回路ではないだろうか?
 
 ”終わりです”とすることによって、「これ以上考えるな、これは当たり前のことなんだ。」と発言しているのと同じことだろう。これは話者だけでなく、聴者にも思考をストップしろと言っていることになる。話者はそれなりの知識人だろうにどうしてこんな発言を繰り返すのか? もっと頭を使おう。真剣に考えよう。聞きようによっては、「俺の意見に賛同しろ。」と言われているような気がする。これでは議論にはならない。

2011年6月8日水曜日

「最悪」って何だ?

 このところの福島原発事故関連ニュースで耳にすることが…
 
  ・「~~~~~という”最悪のケース”です。」
  ・「~~~~~となったら”最悪の状態”です。」

との”最悪”の連発でした。これに近い表現として”~となったらもう終わりです。”なんてのもありました。近頃になって、メルトダウンしていたことが明らかにされ、ニュースで指摘されていた「最悪」の状態に陥ったわけですが、被災された方が亡くなったわけでもないし、生きることを諦めたわけでもありません。希望を見失ったわけでもないでしょう。もしも、戦争でも起きればもっと深刻な状況に陥ることは間違いありません。では、専門家と思われる方々が表現していた”最悪”とは一体なんだったのか?

 小生が「最悪」という表現から聞き取ったのは、
 
  ・この状況に陥ったら、それ以上の深刻な状況は考えたくはない
  ・この状況に陥ったら、対策などを考えたくない
  ・この状況に陥ったら、その状況を人に語ることはできない

のどれかではないだろうか? どれが正しいかはわからないが、いずれも「思考停止」を示すものである。思考停止させたら、その状況を想定した対策など考えることができるはずがない。そう言えば、原発事故が起きた当初は、”想定外”と連発されたが、”最悪のケース”は思考停止させるのだから、想定できなかったのだ。そう言えば、IAEAから、「これは想定外ではなく、想定不足」と指摘されたそうだ。なぜ、日本人は”最悪”という言葉を使って、思考を停止させようとしたがるのか。専門家ですら、意識的に”最悪”という言葉を使いたがっているように感じた。このような思考回路は、外国人ではまず見られない。日本人独特のものである。

 その理由は思うに「言霊信仰」に原因があるのではないだろうか? 日本人は、昔から深刻な状況を口にするとそれが実現してしまうかもしれない、だからその状況は口にしてはいけなかったのだ。これが言霊信仰である。別に言霊信仰を批判するつもりはないが、専門家やマスコミ等でも無意識のうちに言霊信仰の影響を受けていると思われる人が多数、見受けられるのである。これは、リスク管理などできるわけがない。
 
 日本の原子力技術は大変優秀らしい。東京電力にも多くの才能が集まっていると聞くが、”最悪”と言う言葉を使って思考回路を停止させるような奴に原発を扱う資格はない。さっさと辞めてもらいたい。
 

2011年4月25日月曜日

節電では追いつけない場合は?

 今、古い火力発電所を再開させたり、海外から発電設備を借りたりと電力の供給能力を高める努力をしています。目標は、5500万kWに設定しています。この数字自体がストレッチ付きと思うのですが、高い目標を定めることは良いことでしょう。それよりも、なんだかこの目標値を見て国民が安心してしまっているような気がします。過去の最大は確か6300万kW程度だったはずなので、まだ突然のブラックアウトの恐れは残っていると考えるべきでしょう。節電に相当協力していることから避けられるとは思いますが、やはり最悪の事態を想定しそれでも避けられるよう対策を打つべきものです。
 
 照明を暗くしたり、小さなことからと言われていますが、十分な対策とは思えません。小生が思うに関東にあるべきでないものから、他の地域への移転を進めるべきものと考えます。それは決して、工場や企業であってはなりません。それが他の地域、ましてや海外などであっては国力の低下になってしまいます。
 
 どうでしょう? 今の時期だからこそ、首都機能の分散を図りませんか? 小生は、その第一に官邸の機能を福島県へ移転させることを提案したい。今、総理を変えるわけにはいかないでしょう。最低でも6~9ヵ月の間は政治空白を作れないのです。そうなると、その間総理大臣が最も活動して欲しい場所は福島県ではないでしょうか?

2011年4月18日月曜日

福島原発事故の収束報道の不思議

 東京電力から、「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋」が発表されました。解決への道筋が表明されたことは評価してよいと思います。しかし、この報道を巡ってなんだか先走っているような印象を受けます。今回の報道では、目標として1号機から3号機までを冷温停止状態にするように読めないこともないのですが、現状としては2号機からの漏れが指摘されており、冷却のステップも1,3号機とは異なり、密閉作業が必要であり、密閉作業が完成するまでは長期化する恐れがあると、資料にも記載があります。ということで、今回の道筋は1、3号機に関しては収束まで視野に入れた発表であり、2号機に関しては収束までの目処は立っていないと理解しました。
 
 このことは、NHKのニュースでも説明があったかと思いますが、今日のニュースを聞いているとなんだか早ければ6ヵ月で収束するような報道に変わっていました。なぜなんでしょう? 2号機に関してはまだ目処が十分たっていないのに。しかも、今回の対応において、2号機に起因する作業の遅れが1号機、3号機に影響を与えることを加味していません。今日のマスコミ報道は、まるで6ヵ月で収束するように期待を持たせていますけど、いいのかな?
 
 思うに、今の2号機の格納容器の破損がさらに進む恐れだってもう考慮すべきリスクだと思いますが、東電の今回の発表には考慮されていませんでした。多くのリスクを挙げてはありましたが、小生にはどうしても楽観的にリスクをピックアップしているように感じますし、マスコミの報道がさらに拍車をかけているようです。日本人のリスク管理は実に不思議です。こんなことでは、またいずれ同様の事故が起きるように思えてなりません。

 福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋
  http://www.tepco.co.jp/cc/press/11041702-j.html

2011年4月16日土曜日

日本人の思考ロジックの不思議

 未だに福島原発事故が収束する兆しすらない。困ったものだ。被災された方々には心よりお見舞い申し上げる。ところで、この二次災害とも言うべき電力供給問題や放射線汚染の問題の報道を聞いていて、不思議に思った方はいなかっただろうか? 小生には理解できない思考ロジックがあった。

 今回の福島原発の事故の原因は、一言で言えば「想定外だった。」である。日本人は、「最悪の事態」を想定する、議論の場に上げることを極端に嫌がる傾向にある。それが福島原発を引き起こしたと言っても過言ではないはずだ。今回の原発の事故で日本人はそのことを学んだはずなのに。ところがである。

 まず、今回の震災でこの電力供給能力が低下し、この夏場に需要を賄えないことが危惧されている。この所の報道を聴くとなんとか計画停電は避けられそうだということになっている。だが、この報道をよく調べると「去年の同時期の電力需要に比べると…」とか「ここ三年の平均の電力需要に比べると…」と書かれている。去年の夏は確かとても暑かった。電力需要が高まるのは夏場だから、去年の電力需要は過去最高だったとでも思っているのだろうか? 過去のデータは東京電力のホームページに記載があったのだが(今は何故か非公開になっていました。)、過去最高はもっと昔のことであった。なぜ過去最高を調べないのか。小生の記憶が確かなら、過去最高となった時の電力需要は6150万kW。昨年の過去最高よりも1000万kW以上多かった。なぜ、最悪のケースで議論しないのだろうか?

 次に、菅総理が「もう被災地には10年、20年は住めない。」と被災地の町長に話して顰蹙をかったニュースが流れた。どのような会話の中でこのような説明がなされたのかは知らないが、話を聞いていた町長が、地元の被災者に対して、「なぜ、こんな心無いことを言うのだ。」と切々と訴えていたのである。さらにマスコミは、このエピソードを繰り返し、報道しているのである。これは菅総理の対応を批判してのことであろう。小生にだって、被災者の方は地元に帰りたがっている気持ちはわかる。しかし、行政を任せられた者であれば、被災地に10年、20年住めなくなる可能性はもう十分視野に入れて検討すべきであろう。(この可能性が高いと言っているのではない。広島や長崎だって、そうはならなかったことを考えれば、その可能性は少ないと思う。ただ、最悪の事態として起こりうるし、もう行政の長であれば検討の範囲に入れて考えるべきだと言いたいのである。)なぜ、最悪のケースを議論の場にあげないのか?

 地元町長が被災者に対して、「なぜ、こんな心無いことを…」と発言していて気がついた。この地元町長は、「言葉に出してしまうと、現実になることを恐れている」のではないか? だから、「不吉なことは言葉に出すな!」と言いたいのではないか? これは日本人が昔から持っている宗教観”言霊信仰”である。外国にはこのような宗教観はないため、最悪のケースを議論することだって、別になんら支障はない。しかし、日本人の宗教である言霊信仰では、不吉なことを言葉にするとそれが現実になってしまうと考えている。もしかしたら、この言霊信仰があるから日本人は最悪のケースを想定することがはばかれるのかも。

 日本人の多くは自分は無宗教だとか、信仰を持たないと言っています。しかし、日本人ほど定期的に多様に富んだ宗教行事を行う民族はいないでしょう。初詣、しめ縄飾り、供餅、鏡開き、ひな祭りなど、宗教が関係しているものが多いのです。日本人の多くが無意識の中で宗教行事を行い、生活習慣や思考回路まで宗教の影響を実は受けているようです。小生が思うに、このことは意識しないと、改善もできないでしょう。
 別に宗教を捨てろとか言うつもりはありません。遠回りすることなく、一刻も早く、被災者には立ち直ってほしいだけであります。

2011年4月3日日曜日

なぜ東電の原発が福島県にあるのか?

 日本の電力各社はブロック制になっており、福島県は東北電力の管轄です。東京電力は関東地区の管轄なため、福島県は管轄外の地域になります。そこで素朴な疑問ですが、なぜ東京電力の原子力発電所が福島県に作られたのでしょうか? 遠くても電力は送電することはできますが、遠ければ遠いほど伝送効率が悪くなります。なので発電所を作るのなら、需要のある地域の近くに作る方が有利なはずなのです。

 もしも、極端な言い方になりますが、「東京のど真ん中に原発を作ればいいのでは?」と質問したら、どんな反応になるのでしょうか? おそらく、「それは危険だ!」となるでしょう。では、「なぜ、そんな危険なものを福島県に作るの?」と聞きたくなります。そうすると、どんな答えが帰ってくるのでしょうか?どうも過去にこんなやりとりがあったようですが、反対派を補助金で切り崩してつくってしまったのでしょう。

 今の電力は、関東地区の巨大な需要を支えるために、福島県が犠牲になっていたとも言えるのです。もう原発に頼れなくなった以上、関東地区には巨大な電力需要を支えるだけのエネルギーがありません。今の計画停電の問題を回避し、安定的な電力を供給できるようにするためには、需要を大きく抑えこむことは避けれません。もう他地区に発電所を作るのではなく、関東地区に一極集中している首都機能を地域へ移転することを目指すべきでしょう。

2011年1月17日月曜日

党派を超えて意見の集約が図れるのか?

 与謝野氏の入閣にびっくりしています。立ち上がれ日本を作った時には、さんざん民主党を打倒するような発言を繰り返していたのに、今になって先の参議院選挙でその目的は達成されたとはね。打倒民主党の目的が果されたかどうかは別にして、今日のNHKのインタービューに対し、与謝野氏は「私の政治生命をかけて…」と最後の奉公と考えているようであります。よほど体調が悪いのでしょうか? 残された時間が少ないと感じた時には、小さなこだわりは捨てて、志のために仕事をしたいのだと捉えました。最近では、このような政治家は希ですね。
 
 でも、与謝野氏の志は民主党の先生方に理解されるのでしょうか? 与謝野氏は増税派・財政再建重視、民主党のマニフェストとは180度逆です。与謝野氏の考え方は自分としては理解できたとしても、与党内で統一見解になるとはとても思えません。自民党の先生方は果して賛同するのでありましょうか? 考え方は自民党の一部に考え方が近い人がいるはずですが、与党の意見においそれと賛成してくれるとはちょっと考えにくいのであります。
 
 問題は志が通じるのかです。志が高ければ党派、利害関係を超えて理解を得られる場合もある。幕末の動乱期、坂本龍馬が志でもって敵とも意見の一致を図りました。思うに与謝野氏は、坂本龍馬のような心境なのでしょう。これが最後の大仕事とばかりに。もはや入閣の是非について問うことはしません。志を果されんことを望むだけであります。