2012年3月12日月曜日

原発に変われるのかバイオエネルギー

原発の全面停止が現実のものとなった。原発を停止するのなら次の代替エネルギーを探さなければならない。でも、簡単には見つからない。原子力発電は、莫大なエネルギーを持っており、遠い将来までエネルギーを供給してくれるはずだった。もう今年の夏には電力供給不足が懸念されているだけに、代替エネルギー探しは急がなければならないが、人類の未来がかかっているだけに慎重さが求められると考えている。
 
 最近の選択肢の一つで「バイオエネルギー」について考えてみた。最近は、実に様々な生物からエネルギーが作り出せることが分かっている。一部の国では実用化されているものもある。日本のガソリンでは、バイオエタノールが混ぜられているらしい。このバイオエネルギーなのだが、もっと慎重に考えてみる必要があるのではないか?

 サトウキビ、ジャガイモ、ミドリムシ、海草、オーランチキトリウムなどから燃料が作れるらしい。でも、これらの動植物は決して無の空間から有のエネルギーを生み出しているのではないはずである。おそらくや、成長の過程の中で周囲にある肥料、餌などの栄養素を取り込み、太陽光の力を借りてエネルギーに変えているはずである。無から有のエネルギーを作りだしているはずはない。

 人間は、これらの動植物から莫大なエネルギーを取り出そうともくろんでいる。太陽光のエネルギーも決して小さくはないはずだが、それほど多くのエネルギーを期待できない。ということは、莫大なエネルギーの素となっているのは肥料、餌になるはずではないか? エネルギーとして採り出すというのであれば、莫大なエネルギーに相当する肥料、餌を与えなければならないことになる。でないとエネルギー保存の法則が崩れてしまうではないか?

 あくまでも科学知識のない小生が考えた想像なのだが、バイオエネルギーを作りだしている生物は、おそらく2~3回はエネルギーを生成してくれる。しかし、繰り返して生成しているうちにだんだん、エネルギーの素が不足するようになり、生成できなくなってくる。生物を利用しても、本当に将来にわたりエネルギーを生成してくれるわけではないのだ。
 
 植物が光合成を行い、それを動物が食べる。動物はやがて死に、分解され植物に取り込まれていく。この循環が成り立っていることは地球46億年の歴史が証明していると言ってよい。動物などが動き回っているエネルギーの源は、基を辿れば、循環を手助けしている太陽光エネルギーに行き着くだろう。

 しかし、バイオエネルギーというものは人間が作った内燃機関で燃やされる。ここで作った燃えカスは、植物に取り込まれて再びエネルギーになるのであろうか? まだそんなことは誰も証明していないように思う。もしかしたら、ここで循環が断ち切れていたら人類の将来はどうなるのだろうか? バイオエネルギーとは、地球にあるエネルギーを少しずつ消費し、動植物が育たない土壌に変えていくのではないか? そんなことを思ってしまった。果して、バイオエネルギーは本当にエコなのだろうか? 誰がこれを証明してくれるのだろう?

2012年3月10日土曜日

決断できないリーダーとは?

最近、『「決断できないリーダー」が会社を潰す』(冨山和彦著)を読みました。著者の冨山氏は産業再生機構のCOOを務めました。数々の企業の再生に携わってきた方であり、多くの修羅場を経験してきた方です。それだけに、その言葉は実に重く受け止めました。この著書で語られている「決断できないリーダー」ですが、もっと具体像を示します。それは、
 
 ①対立する2つの選択肢があった時に、両者共に、もしくは両者の間を選択しようとする。
 ②意思決定をしなければならない時に、意思決定をしない理由を見つけて決定を先送りする
 ③問題点があっても、気がつかないふりをする。もしくは、気がついていても調整はしない。
 
などがあります。こうなると、周りにも何人か思いつく人が出てくるでしょう。決断できないリーダーというと、よほど能力のない人と思う人もいるでしょうが、何かスキルの欠けている人というわけではなく、小生の理解では「修羅場を経験してきていない人」と捉えた方がよいようです。つまり、多くの人は修羅場など経験していないわけですから、身を引きちぎられるような決断を迫られた時には、上記の3つのどれかに陥ってしまうことでしょう。

 ところで、もう東日本大震災から1年が過ぎようとしています。福島の原発事故も重なり、今では日本全国で稼動している原子力発電所はわずか2機だけ。5月には日本の全ての原子力発電所が停止してしまうことでしょう。この関連ニュースを聞いていて、ここにも決断しないリーダーがいたのかと感じたニュースがありました。
 
 原子力発電所は約1年ごとに定期点検を義務付けられており、再稼動するときには地元自治体の首長の承認が必要です。ただし、この承認は稼動のための条件の一つに過ぎません。極端な言い方をすれば、例えば首長が再稼動を命令したとしても、国や電力会社が安全を稼動を認めなければ稼動できないのです。なので、自治体の首長の承認は地元の代表として再稼動を認めるのか、それとも認めないのかを意思決定するべきなのです。
 
 ところが、最近のニュースでは原子力発電所がある地域の首長は、「国がやるべき仕事をやっていない。」と言って意思決定を先送りしていました。もしも再稼動を認めないのなら、地元としてストレステストをやっても承認はしないとはっきり示せばよいはずです。しかしながら、「現時点では」とか、「その前に国が責任を果していない」とか言って意思決定を先送りしているように見えます。
 
 地元住民の意見集約の結果として、再稼動を認めないのならそれでもよい。でも、それならば代替エネルギーをどうするのか、代替エネルギーがあってもコスト増の可能性が高くその対策をどうするのか、原発周辺は城下町のごとく周辺産業がありましたがそれがなくなるわけですから保証をどうするのか等、問題山積なのです。意思決定を行っていれば、もうこれらの対策をどうするか検討の段階に入れているはずです。
 
 現在でも、意思決定が行われていません。なので、原子力発電所の中では多くの従業員が再稼動を目指して津波対策などのさまざまな設備投資を行っています。これでもし、再稼動を認められないのなら、全て無駄! そもそも再稼動を認めないのならストレステストだってやる意義がありません。意思決定を遅らせることがこのような中途半端な状態を続けることになるのです。意思決定をできないリーダーが首長をやっているのです。これで日本丸も潰れていくのでしょうか?

2011年11月23日水曜日

思考停止現象

最近、特にTPP関連のニュースを聞いていると、
 
  「~なったら、終わりです。」
  
などおっしゃる方が実に多いこと。例えば、「TPPに参加したら日本の農業は終わりです。」というように使っています。小生などは何で終わりなのか分からず、その発言に耳を傾けていると次には、「日本の農業が壊滅したら、日本の食の安全はどうなるのでしょうか?」などと発言している。この発言はあまりに矛盾していないだろうか? もしくは自分で解決策を探そうするつもりがあるのか? と不思議に思ってしまう。 この論理はあまりに自分勝手なロジックを組み立てたものであり、自分で解決策のない難題を作り上げているように感じる。小生などは、「食の安全を求める人がいるのなら、日本の農業にだって生き残るチャンスはある。」と考えてしまう。

 本当に生き残るチャンスがあるかは保証できないが、根本にある問題は、「~なったら、終わりです。」のロジックがどのように組み立てられているのか、それを明らかにしないで議論していることである。「~なったら、終わりです。」という表現は、ロジックは説明しなくても自明なので、次に順接につながることを発言するのなら使ってもよいと思う。しかし、例に挙げたのは逆説で「食の安全は…」と発言している。それならば、「~なったら、終わりです。」のロジックを丁寧に説明しなければ問題を考えようがないではないか。発言者の意図を考えるに、問題点は「~なったら、終わりです。」のどこかにあるからである。小生などは本当に終わりなのだろうかと考えている。 思うに、終わっているのは発言者の思考回路ではないだろうか?
 
 ”終わりです”とすることによって、「これ以上考えるな、これは当たり前のことなんだ。」と発言しているのと同じことだろう。これは話者だけでなく、聴者にも思考をストップしろと言っていることになる。話者はそれなりの知識人だろうにどうしてこんな発言を繰り返すのか? もっと頭を使おう。真剣に考えよう。聞きようによっては、「俺の意見に賛同しろ。」と言われているような気がする。これでは議論にはならない。

2011年6月8日水曜日

「最悪」って何だ?

 このところの福島原発事故関連ニュースで耳にすることが…
 
  ・「~~~~~という”最悪のケース”です。」
  ・「~~~~~となったら”最悪の状態”です。」

との”最悪”の連発でした。これに近い表現として”~となったらもう終わりです。”なんてのもありました。近頃になって、メルトダウンしていたことが明らかにされ、ニュースで指摘されていた「最悪」の状態に陥ったわけですが、被災された方が亡くなったわけでもないし、生きることを諦めたわけでもありません。希望を見失ったわけでもないでしょう。もしも、戦争でも起きればもっと深刻な状況に陥ることは間違いありません。では、専門家と思われる方々が表現していた”最悪”とは一体なんだったのか?

 小生が「最悪」という表現から聞き取ったのは、
 
  ・この状況に陥ったら、それ以上の深刻な状況は考えたくはない
  ・この状況に陥ったら、対策などを考えたくない
  ・この状況に陥ったら、その状況を人に語ることはできない

のどれかではないだろうか? どれが正しいかはわからないが、いずれも「思考停止」を示すものである。思考停止させたら、その状況を想定した対策など考えることができるはずがない。そう言えば、原発事故が起きた当初は、”想定外”と連発されたが、”最悪のケース”は思考停止させるのだから、想定できなかったのだ。そう言えば、IAEAから、「これは想定外ではなく、想定不足」と指摘されたそうだ。なぜ、日本人は”最悪”という言葉を使って、思考を停止させようとしたがるのか。専門家ですら、意識的に”最悪”という言葉を使いたがっているように感じた。このような思考回路は、外国人ではまず見られない。日本人独特のものである。

 その理由は思うに「言霊信仰」に原因があるのではないだろうか? 日本人は、昔から深刻な状況を口にするとそれが実現してしまうかもしれない、だからその状況は口にしてはいけなかったのだ。これが言霊信仰である。別に言霊信仰を批判するつもりはないが、専門家やマスコミ等でも無意識のうちに言霊信仰の影響を受けていると思われる人が多数、見受けられるのである。これは、リスク管理などできるわけがない。
 
 日本の原子力技術は大変優秀らしい。東京電力にも多くの才能が集まっていると聞くが、”最悪”と言う言葉を使って思考回路を停止させるような奴に原発を扱う資格はない。さっさと辞めてもらいたい。
 

2011年4月25日月曜日

節電では追いつけない場合は?

 今、古い火力発電所を再開させたり、海外から発電設備を借りたりと電力の供給能力を高める努力をしています。目標は、5500万kWに設定しています。この数字自体がストレッチ付きと思うのですが、高い目標を定めることは良いことでしょう。それよりも、なんだかこの目標値を見て国民が安心してしまっているような気がします。過去の最大は確か6300万kW程度だったはずなので、まだ突然のブラックアウトの恐れは残っていると考えるべきでしょう。節電に相当協力していることから避けられるとは思いますが、やはり最悪の事態を想定しそれでも避けられるよう対策を打つべきものです。
 
 照明を暗くしたり、小さなことからと言われていますが、十分な対策とは思えません。小生が思うに関東にあるべきでないものから、他の地域への移転を進めるべきものと考えます。それは決して、工場や企業であってはなりません。それが他の地域、ましてや海外などであっては国力の低下になってしまいます。
 
 どうでしょう? 今の時期だからこそ、首都機能の分散を図りませんか? 小生は、その第一に官邸の機能を福島県へ移転させることを提案したい。今、総理を変えるわけにはいかないでしょう。最低でも6~9ヵ月の間は政治空白を作れないのです。そうなると、その間総理大臣が最も活動して欲しい場所は福島県ではないでしょうか?

2011年4月18日月曜日

福島原発事故の収束報道の不思議

 東京電力から、「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋」が発表されました。解決への道筋が表明されたことは評価してよいと思います。しかし、この報道を巡ってなんだか先走っているような印象を受けます。今回の報道では、目標として1号機から3号機までを冷温停止状態にするように読めないこともないのですが、現状としては2号機からの漏れが指摘されており、冷却のステップも1,3号機とは異なり、密閉作業が必要であり、密閉作業が完成するまでは長期化する恐れがあると、資料にも記載があります。ということで、今回の道筋は1、3号機に関しては収束まで視野に入れた発表であり、2号機に関しては収束までの目処は立っていないと理解しました。
 
 このことは、NHKのニュースでも説明があったかと思いますが、今日のニュースを聞いているとなんだか早ければ6ヵ月で収束するような報道に変わっていました。なぜなんでしょう? 2号機に関してはまだ目処が十分たっていないのに。しかも、今回の対応において、2号機に起因する作業の遅れが1号機、3号機に影響を与えることを加味していません。今日のマスコミ報道は、まるで6ヵ月で収束するように期待を持たせていますけど、いいのかな?
 
 思うに、今の2号機の格納容器の破損がさらに進む恐れだってもう考慮すべきリスクだと思いますが、東電の今回の発表には考慮されていませんでした。多くのリスクを挙げてはありましたが、小生にはどうしても楽観的にリスクをピックアップしているように感じますし、マスコミの報道がさらに拍車をかけているようです。日本人のリスク管理は実に不思議です。こんなことでは、またいずれ同様の事故が起きるように思えてなりません。

 福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋
  http://www.tepco.co.jp/cc/press/11041702-j.html

2011年4月16日土曜日

日本人の思考ロジックの不思議

 未だに福島原発事故が収束する兆しすらない。困ったものだ。被災された方々には心よりお見舞い申し上げる。ところで、この二次災害とも言うべき電力供給問題や放射線汚染の問題の報道を聞いていて、不思議に思った方はいなかっただろうか? 小生には理解できない思考ロジックがあった。

 今回の福島原発の事故の原因は、一言で言えば「想定外だった。」である。日本人は、「最悪の事態」を想定する、議論の場に上げることを極端に嫌がる傾向にある。それが福島原発を引き起こしたと言っても過言ではないはずだ。今回の原発の事故で日本人はそのことを学んだはずなのに。ところがである。

 まず、今回の震災でこの電力供給能力が低下し、この夏場に需要を賄えないことが危惧されている。この所の報道を聴くとなんとか計画停電は避けられそうだということになっている。だが、この報道をよく調べると「去年の同時期の電力需要に比べると…」とか「ここ三年の平均の電力需要に比べると…」と書かれている。去年の夏は確かとても暑かった。電力需要が高まるのは夏場だから、去年の電力需要は過去最高だったとでも思っているのだろうか? 過去のデータは東京電力のホームページに記載があったのだが(今は何故か非公開になっていました。)、過去最高はもっと昔のことであった。なぜ過去最高を調べないのか。小生の記憶が確かなら、過去最高となった時の電力需要は6150万kW。昨年の過去最高よりも1000万kW以上多かった。なぜ、最悪のケースで議論しないのだろうか?

 次に、菅総理が「もう被災地には10年、20年は住めない。」と被災地の町長に話して顰蹙をかったニュースが流れた。どのような会話の中でこのような説明がなされたのかは知らないが、話を聞いていた町長が、地元の被災者に対して、「なぜ、こんな心無いことを言うのだ。」と切々と訴えていたのである。さらにマスコミは、このエピソードを繰り返し、報道しているのである。これは菅総理の対応を批判してのことであろう。小生にだって、被災者の方は地元に帰りたがっている気持ちはわかる。しかし、行政を任せられた者であれば、被災地に10年、20年住めなくなる可能性はもう十分視野に入れて検討すべきであろう。(この可能性が高いと言っているのではない。広島や長崎だって、そうはならなかったことを考えれば、その可能性は少ないと思う。ただ、最悪の事態として起こりうるし、もう行政の長であれば検討の範囲に入れて考えるべきだと言いたいのである。)なぜ、最悪のケースを議論の場にあげないのか?

 地元町長が被災者に対して、「なぜ、こんな心無いことを…」と発言していて気がついた。この地元町長は、「言葉に出してしまうと、現実になることを恐れている」のではないか? だから、「不吉なことは言葉に出すな!」と言いたいのではないか? これは日本人が昔から持っている宗教観”言霊信仰”である。外国にはこのような宗教観はないため、最悪のケースを議論することだって、別になんら支障はない。しかし、日本人の宗教である言霊信仰では、不吉なことを言葉にするとそれが現実になってしまうと考えている。もしかしたら、この言霊信仰があるから日本人は最悪のケースを想定することがはばかれるのかも。

 日本人の多くは自分は無宗教だとか、信仰を持たないと言っています。しかし、日本人ほど定期的に多様に富んだ宗教行事を行う民族はいないでしょう。初詣、しめ縄飾り、供餅、鏡開き、ひな祭りなど、宗教が関係しているものが多いのです。日本人の多くが無意識の中で宗教行事を行い、生活習慣や思考回路まで宗教の影響を実は受けているようです。小生が思うに、このことは意識しないと、改善もできないでしょう。
 別に宗教を捨てろとか言うつもりはありません。遠回りすることなく、一刻も早く、被災者には立ち直ってほしいだけであります。